
世界文化遺産『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』

日本史上最大規模の一揆「島原・天草一揆」
寛永十四年(1637)から翌年にかけて、島原半島南部で起こった一揆。農民一揆及びキリシタン一揆としての側面を持つ。
島原藩主 松倉氏の治世下において行われていた年貢の取り立ては、本来の石高を大幅に上回るものであった。また禁教令に伴うキリシタンの取り締まりにあたって、棄教を拒むものに対する仕打ちは苛烈を極めた。こうした状況に寛永十四年の飢饉も重なり、ついに耐えかねた領民が代官を殺害する。この事件に呼応するように、島原半島各地で次々に領民が蜂起する。一揆勢は松倉氏の居城である森岳城(島原城)に迫るも、城を落とすには至っていない。こうした動きは対岸の天草地方とも連動しており、富岡城の攻囲も行われている。
一揆の終盤において主戦場となったのは、一国一城令により既に廃城となっていた原城であり、おもに島原半島南目(みなんめ、※南部の意)地方及び天草地方の領民併せて約3万7千人が立て籠もった。一方の幕府連合軍は総勢12万の軍勢によって、この鎮圧にあたっている。
およそ3ヶ月に及ぶ籠城戦の末、兵糧攻めによって疲弊した一揆勢は幕府連合軍の前に敗れ、一揆は終息する。投降者はあったものの、一揆勢の多くがこの戦いによって亡くなっている。一方の幕府軍もまた、甚大な被害を被っている。

悲劇の舞台「原城跡」
天草四郎を総大将として一揆衆が立てこもり、籠城戦を展開した島原天草一揆の最後の砦。一揆後、キリスト教を恐れた幕府は原城跡に残存する石塁などを徹底的に破却している。
1990年(平成2年)から発掘調査が開始され、破壊された城の残骸の中に大量の人骨が発見された。人骨と同時に当時の十字架やメダル、ロザリオ等も発見された。
今では「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産の1つとして、数多くの観光客が訪れており、平成30年7月、世界文化遺産に登録された。

総大将「天草四郎」
天草 四郎は江戸時代初期のキリシタンで、島原天草一揆における一揆衆の最高指導者とされる。本名は益田 四郎。諱は時貞。洗礼名は当初は「ジェロニモ」であったが、一時期表向きの棄教をしていたためか、島原の乱当時は「フランシスコ」に変わっていた。一般には天草四郎という名で知られる。天草四郎像は、南島原市南有馬町出身で日本を代表する彫刻家 北村西望先生の作品。原城の聖マリア観音の作者 親松英治氏も若い頃、西望先生のアトリエに通われ親交があったそうです。
原城跡 フォトギャラリー
■参考サイト
世界遺産のまち 南島原 ホームページ(※外部サイトへアクセスします)
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